ホテルグレイスリー 新ブランド立ち上げの頃

ワシントンホテル開業 50 周年を迎えて、ホテルグレイスリーの新ブランド立ち上げに携わった野口浩三さん(株式会社フェアトン 代表取締役社長)井口裕之さん(藤田観光工営株式会社 緑地管理部 部長)に、お二人にインタビューしました。

株式会社フェアトン(写真左)
代表取締役社長
野口 浩三さん
藤田観光工営株式会社(写真右)
緑地管理部 部長
井口 裕之さん

グレイス・ケリーにあやかってグレイスリーに

―――順調に拡大を続けていたワシントンホテルですが、市場環境の変化が訪れます。今から15年前の2008年。新ブランド立ち上げが待たれるようになりました。
本日はホテルグレイスリーブランドの立ち上げ時のお話を伺います。お二人は当時、上司と部下の関係でした。

野口
当時私がマーケティング部署の責任者で、新ブランド立ち上げのプロジェクトリーダーを井口さんが担うこととなりました。

―――ホテルグレイスリー田町は2008年10月開業で、プロジェクトは4月から発足したそうですね。

井口
プロジェクトに入った4月の時点では建物は建設中。設計の概要しかわからない状況で準備を進めなければなりませんでした…。

―――今回の50周年インタビューでは「オープンは決まっていて時間がない!」というのは定番のセリフになっています。

井口
本当ですね。当時ワシントンホテルグループは順調に発展し続けていたのですが、「ワシントン」ブランド使用の調整が必要なことと、インターナショナルに展開していく上では問題が出てきていました。
野口
競合との問題でもツインの2名利用宿泊を基本としていたシティホテルがシングル1名宿泊市場にも進出してきており、差別化を図る新ブランドが望まれる事業環境でした。
井口
ワシントンホテルグループのアッパーブランドが必要になってきたのです。
特に客室の広さに関しては12~13㎡が主流だった当時のワシントンホテルの仕様から15㎡に拡げたルームで勝負する必要がでてきていました。
野口
ホテルグレイスリー田町が開業した2008年。リーマンショックはあったもののバブル崩壊からの長い低迷時代からようやく回復しつつある頃でした。
ホテルグレイスリー田町はアッパーグレードのビジネスホテルが求められてきた時代に誕生し、順調に育っていくことができたのだと思います。

―――とはいえ、プロジェクト開始から半年後にはオープンさせなければならない?!

井口
2008年6月にようやく“グレイスリー”ブランドで決定しました。グレイスリーは英語でなく、造語になります。
当初の30案から絞られて10案になり、最終的に決定することができました。グレイス=高貴な、上質なという意味に場所を意味するRYを付けてGRACERYに。
本来であれば、グラセリーと読むべきですがモナコ王妃になった女優グレイス・ケリーのイメージからグレイスリーと読ませることになりました。また、シンボルマークはアルファベットのGをモチーフに客室に見立て、そこに上質な風をイメージさせています。
野口
客室は15㎡以上。
ロビーラウンジを設ける、とグレイスリーブランドの骨格が決まってきました。

―――ホテルグレイスリー田町のレストランは「ボンサルーテ・カフェ」というカジュアルなスタイルに決まりました。

野口
そのカフェでは朝、昼、晩の3食対応でスタートしました。
例によって「走りながら考える」わけですから、井口さんは相当苦労したと思います。
井口
とにかく早く決裁をもらって発注をかけなければ間に合わないわけです。
しかし、決裁いただくにはコンセプトとの整合性や見積もり合わせをしっかりしなければならず、頭をかきむしるような毎日でした。
野口さんには、たびたびご協力いただきなんとか間に合わせることができました。
野口
とにかく時間がなかったから、毎日二人で終電の時間を気にしながら仕事をこなしていましたね。

―――それでも2008年10月のオープンにはきっちり間に合わせた。オープニングレセプションはさぞかし感無量の思いだったでしょうね。

井口
とんでもない。ハラハラドキドキのオープニングレセプションでした。
それまでのワシントンホテルのオープニングレセプションはテープカット、来賓のスピーチ、立食パーティーという決まった形式があったのです。
しかし、新ブランドのグレイスリーはこれまでと違ったレセプションにするのだと、明確な方針があったため、徹夜で準備した記憶があります。
野口
なにしろ2日間にわたってのレセプション。
1日目は旅行エージェントの皆さま。2日目は銀行を中心とする来賓の皆さま。
パネルを展示しながら、グレイスリーのコンセプトや藤田観光グループの紹介をプレゼンテーションするカタチでした。苦労しましたけど、それがその後のオープニングレセプションの基本スタイルになりましたね。
井口
当日は、突然の大雨でお客様が雨に濡れてしまわれたので、近くのコンビニにタオルを買いに走ったり来賓の皆さまの車を誘導したりと感慨に浸る余裕はなかったです。

―――2008年当時は、来賓の旅行エージェントの皆さまをご案内しつつ、旅行雑誌からの対応も必要だったとか。ネットの予約も試行錯誤の中で始まり、いろいろなことが過渡期だったと伺いました。

野口
ホテルの予約は電話が中心でしたがネットからの予約も増え始め、混沌の時代でした。
社内的にもスタッフのマルチタスク化と言って、フロント業務をこなしながらレストラン業務もおこなえるような仕組みづくりにも取り組みました。
井口
マルチタスクをお願いしながらシフトづくりとか、試行錯誤でしたね。苦い経験もたくさんあります。

―――その後、リーマンショックで市場の冷え込みがありながら2010年5月に秋葉原ワシントンホテルがリニューアルオープン、2013年10月には広島ワシントンホテル、2013年12月仙台ワシントンホテル開業、2015年4月ホテルグレイスリー新宿開業と、オープンが続きます。

野口
2011年の東日本大震災を底にして、マーケットは回復していったのかな。
私は別部署に異動していましたが、2014年にまたWHGに戻ってきました。
井口
秋葉原、広島、仙台と地元密着を旗印にオープンが続きました。

―――秋葉原はリニューアル前から鉄道ルームが有名でしたね。

井口
もともと計画されていたわけではないのですが、山手線、京浜東北線、新幹線の走る姿が見えるルームとして今でもたくさんの鉄道マニアの方にご利用いただいているようですね。
野口
結果としてのコンセプトルームなのかもしれませんが、常に“地域密着” ということで考えて運営しながら手探りの開発を続けていたことが大きかったですね。
メディアの方々にもよく取り上げていただきました。もちろん、成功ばかりでなく失敗も数多くあって…。いろいろチャレンジしたことで残ったものがあったということです。

―――2015年4月、ホテルグレイスリー新宿オープン時も、ゴジラ支配人やゴジラルームもメディアに大々的に取り上げていただきました。

野口
東宝さんのコマ劇場跡地に建設するということで、会社をあげて東宝さんと一緒に盛り上がっていたことを覚えています。新宿東宝ビルの8階テラスまでの高さがちょうど40メートル。そのテラスに、初代ゴジラの身長とほぼ同じ52メートルの高さのゴジラヘッドが設置されたようですね。
そのゴジラの目の高さにあるのがゴジラルームです。
窓の外に目があるわけですから、私などは落ち着いて眠れないと思うのですがファンの方々からは大好評です。
また、地域密着という点では、ホテルグレイスリー新宿には、宿泊されているお客様のリクエストに応えて、様々なご案内を行うコンシェルジュを常駐させています。
歌舞伎町周辺の様々な飲食店舗をお客様に安心・安全に楽しんでいただけるよう、開業前にはコンシェルジュスタッフ自ら歌舞伎町商工会に加盟しているホストクラブなどにも足を運び、関係性を構築するという地道な取り組みもしました。おかげさまでお客様からも好評いただいています。

―――日本全国、地域それぞれの特長をいかし貢献されているわけですね。

野口
2016年7月にホテルグレイスリー京都三条 北館開業の際には京都に“もどってきた藤田観光” ということでテレビや地元新聞社に大々的に取り上げていただきました。
前身のホテルフジタ京都は1961年開業で著名な俳優の定宿としてずいぶんご愛顧いただいていましたから。

―――ホテルグレイスリーの新宿や京都三条は、インバウンドの方にも数多くご利用いただいているそうですね。

野口
通年でも5割、ハイシーズンでは京都で7割以上、新宿では8割がインバウンドのお客様ですね。
井口
グレイスリーブランドの立ち上げによって、インバウンドのお客様によりご利用いただけるようになってきたと思います。また、女性のビジネス出張や観光も増え、カップルはもちろん女性お一人様でのご利用が増えているのはブランドが浸透してきたことの表れだと思います。

―――グレイスリーブランドの立ち上げは地域密着のマーケティングと時代の変化に合わせた戦略でした。WHGグループ50周年の歴史の中でも 新しいチャレンジを続けるDNAがもたらしたものですね。
本日はありがとうございました。

2023年に創業50周年を迎えたワシントンホテル
その開業の裏側には、社長も社員も協力会社の皆様も一体となって奮闘してきた歴史がありました。