新宿ワシントンホテル開業の頃

ワシントンホテル開業 50 周年を迎えて、新宿ワシントンホテルの開業に携わった伊勢宜弘(藤田観光株式会社 代表取締役社長)に、インタビューしました。

藤田観光株式会社代表取締役社長
伊勢 宜弘さん

新宿のイメージを変えた新しい顔に。
新宿ワシントンホテル開業の頃

―――まだ、都庁ができる前の西新宿。新宿副都心は、本格的に発展していきます。

伊勢
都庁ができる前は、その空き地にキャッツシアターがあって、地方から観劇に来るお客様がよく泊まってくれました。
開業以来、順調にお客様に支持されたのです。
そこでは、効率化。今でいう、IT化が急務でした。
私も、膨大な朝食券を手書きから、一太郎(当時のワープロソフト)で発券し、効率化を図ったりしました。これは社長賞をもらった…と、いうのも良い思い出です。
開業した 1983年は、日本が第二次オイルショックから蘇り、新たな発展が見え始めた年でした。
不安で暗い世相を経て、365日・24時間フル稼働を目指す新宿ワシントンホテルはアッパーグレードのビジネスホテルとして、新宿の方々や世界のビジネスマンに愛されるホテルへと順調に育っていくことができたのです。
1,301室という前代未聞の規模のホテル開業なので、社内でもビッグプロジェクトとして「何かあったら、藤田観光本体の経営を揺るがしかねない」との懸念から新たに新宿ワシントンホテル株式会社という子会社を設立して備えたのでした。
まさに、背水の陣の戦いでした。

―――新宿ワシントンホテルの開業でWHGは大いなる飛躍をすることになります。バブル前の元気な時代。でも開業に向けてはたいへんな苦労が待っていたそうですね。

伊勢
1983年12月12日に開業した新宿ワシントンホテル。
私はその年の4月に入社しました。研修は秋葉原ワシントンホテル。レストラン、フロント、まず現場からでしたね。
3カ月過ぎた後、すぐに新宿ワシントンホテル開業準備室に配属となりました。
準備室は私を含めて5人。新人ながら、これから開業に向けて新たに採用する方たちの「指導チーフ」を拝命しました。

―――新人ながら「指導チーフ」とは、大抜擢だったのですね。

伊勢
抜擢なんてもんじゃない。無茶苦茶です(笑)。とにかく人材が足りない。
すべて、同時進行です。採用の広告を出しながら面接をして、教育して、また面接をして開業の準備をしていく。
1,301室を回していくには、従来のオペレーション・人力だけでは到底無理です。機械化が必須で、オペレーションをゼロから作り上げなければなりませんでした。
NEC さんとACOS2(エイコス2)という、大型汎用コンピュータで、日本初の本格的な大規模ホテル用システムの開発に取り組みました。
新宿ワシントンホテルのテレビコマーシャルのキャッチフレーズは「ハイテックホテル」と決まりました。
当時は、ハイテクをハイテックと呼んだのです。しかし、ハイテクシステムを稼働させるには人の力が必要です。
NEC のシステムエンジニアたちも大規模ホテル用のシステムは初めての挑戦です。
皆で、試行錯誤しながらの毎日でした。しかし、開業の日にちはどんどん迫ってきます。

―――当時のコンピューターは図体ばかり大きくて、今の時代では考えられないくらい小さな仕事量しかできませんでした。
ホテルのルーム数1,301 室。これは、単館では当時日本最大のルーム数だったそうですね。しかしながら、最初はうまくいかなかった?

伊勢
新宿地区だけでなく、日本で最大のルーム数を誇るホテルが、ハイテックで登場となったわけです。
テレビのコマーシャルも流れましたし、取材も多かった。
しかし、華やかな表舞台の裏では、開業までに必要な人数のスタッフを集めて教育までできるのか、オールコンピューターシステムのオート(自動)フロントは稼働するのか?ハラハラどきどきの毎日です。
1,301室が、どのような規模なのかは、誰にもわかりません。
この規模になると、従来の金属製のルームキーを使用するとキーラックだけで十数メートルの長さになります。
フロントスタッフは、お客様の到着に合わせて右から左へ十数メートルも走りまわることになったでしょう。

―――ハイテックは必要不可欠だったわけですね。そこで、画期的な「紙のルームキー」が開発された?

伊勢
従来の金属製のルームキーでは対処できないことは設計の段階で分かっていました。
そこで、世界初の紙のルームキーである「カードキー」の導入が決まったのです。
また、お客様は無人の機械の前で、チェックイン・チェックアウトを行うと言う、当時では最先端でありハイテックなシステムを導入しました。

―――しかしながら、最初はうまくいかなかった?

伊勢
まず、領収書発行で躓きました。
OMRONさんと組んで3枚複写の領収書が印字されて出てくるシステムを作ったのですが、プリンターも想定以上の印刷量に悲鳴をあげ、毎日、詰まってしまうのです。
また、当時はクレジットカードが普及しはじめたばかりですから、ほぼすべて現金精算です。
お客様がオート(自動)フロントの機械の前に立って、精算の金額を入れても稼働しないこともある。
しかたなく、スタッフが機械の後ろに待機して金額を計算。
「お客様、ご確認をいただけますか?」と、機械の後ろから声をかけ、返却口から自動でお釣りがでたように見せながら、スタッフの手で、後ろの機械に釣銭を投入することもあったのです(笑)。

―――その後、カードキーはビジネスホテルにとって当たり前の時代になりましたが、当時は珍しくてお土産にカードキーを持ち帰るお客様もいたとか。

伊勢
そうです、記念に持って帰る人が多かった。紙のカードキーはチェックアウトしてしまえば、使えなくなります。最新のハイテックホテルに行ってきた…と、周りの人に自慢してくれたようです。

―――そこで、カードキーの広告を思いつかれたのですね。

伊勢
もちろん、経費を削減するためではありましたが、協力会社様にお願いして裏面に広告を載せていただきました。それも、良い広告になったと思います。

―――開業当時の時代背景についてもお聞きします。
1983年は、浦安に大規模エンターメント施設が開業したり、人気を博した家庭用ゲーム機の発売もありました。翌、1985年にはつくば万博が開催された時期ですね。

伊勢
インバウンドの先駆けであり、外国のお客様も多かったです。あの時代、「東京で泊まってみたいホテルのひとつ」になるほど注目を集めました。白鳥のような外観のホテルと呼ばれていましたね。
食事や接待ができるレストランやバーなどの飲食施設もにぎわっていました。
「ガスライト・三十三間堂・銀座・バロン・ボンジュール」などの直営店舗に加え、地下1階から地上2階までをテナント街とし、 飲食店や専門店街を配しました。

―――しかし、特徴的な小さなホテルの窓には、切実な時代背景があったそうですね。

伊勢
窓が小さかったのは、1978年の第二次オイルショックの影響ですね。断熱効果を高めるために窓を小さくしたのです。
SDGsの先駆け的存在、とも言えるかもしれませんが、冷暖房の効率化は至上命令でした。同時に、東京都の依頼で、中水の利用を行いました。シャワーや飲料水は上水。トイレの洗浄は、浴室で利用した水を地下で貯蔵し、中水として再利用したのです。

―――水といえば、クリスマスのシャワー問題でたいへん苦労されたとか。

伊勢
12月12日に開業してすぐ、9割近い稼働でしたが、一度は、満室にしてみよう、と。私はナイトチーフとして、泊まり込みをしながら頑張っていたのです。
まず、12月24日のクリスマスイブを満室にしようと皆で頑張り、初めて満室にすることができました。しかし、事件はその日の夜に起こったのです。
当時話題のビッグカップル、山口〇恵と三浦〇和の名前で宿泊予約されたカップルで満室となったクリスマスイブ。同時刻に一斉に使われたバスタブやシャワーによって、お湯が出なくなってしまったのです。お湯を作るタンクが、一気に空になってしまいました。

―――その夜は、クレームに追われて朝まで…

伊勢
ナイトチーフですから…
しかし、これを教訓に新規ホテルのオープン前に一度は満室状態にして、水だけでなく電気や空調など設備上の不具合が発生しないか、確認するようになりました。
我々も設備会社さんも1,301室の規模がどのようなものか、開業当時は想定できなかったのですね。
笑い話ですが、大規模ホテル、1,301室の凄まじさの一例をあげると、当時各ルームにはメモ帳と鉛筆が置かれていたのです。
開業前準備で鉛筆を1,300本以上電動鉛筆削りで削っていると、あまりの負荷で、鉛筆削りが壊れてしまいました。
宿泊部門だけでなく、すべての部署が、筆舌に尽くし難い数々の事を経験し、そこからどうしたら正常な運営に持って行けるのか、お客様に迷惑が掛からずに安心してお過ごしいただけるホテルに出来るのかを皆で考え実践していきました。
翌年の4月にはオープンメンバーも熟練度が増し、元気のいい新入社員も大勢入ってくれ、1986年の春には隣に新館336室がオープンし、バブルの真っ只中へ突進していきました。
本年、2023年は開業40周年となります。
年末には「40周年を祝う会」が開催されるとのこと、新宿ワシントンホテルを日本一のホテルへと育ててくれた、恩師・同志・後輩と旧交を温め、あの頃の苦労話に花を咲かせる日が楽しみです。

2023年に創業50周年を迎えたワシントンホテル
その開業の裏側には、社長も社員も協力会社の皆様も一体となって奮闘してきた歴史がありました。