札幌ワシントンホテル開業の頃

ワシントンホテル開業 50周年を迎えて、第1号店である札幌ワシントンホテルの開業に携わった田口泰一さん(藤田観光株式会社前代表取締役副社長)に、お話を伺いました。
開業にあたっての苦労、当時の社会の雰囲気や業界初のイノベーションを巻き起こした開業世代の人間ドラマなど、じっくりと語っていただきました。

藤田観光株式会社前代表取締役副社長
田口 泰一さん(現レジャー産業研究会グループ8代表幹事)

これから時代は変わっていくんだ!
ビジネスマンが泊まれるホテルを
展開しなければ…
札幌ワシントンホテル開業の頃

―――50年前の昭和の時代、想像もつかないのですが、どんな時代で、開業に向けてどんなことがあったのでしょうか。

田口
50年前の1973年に開業した札幌ワシントンホテルは、日本のビジネスホテルの草分けとして誕生しました。
私は1970年入社なんです。入社して3年間は箱根小涌園に配属され、現場で働いていました。3年たって本社に転勤になり、すぐにワシントンホテルを担当ということになりました。ですから、開業当時入社3年目の新人として札幌に赴き、右も左もわからないながら懸命に働いたのを覚えています。
1970年から1980年の10年間というのは、当時のテレビコマーシャルにあったように「モーレツ」な時代でした。モーレツ社員、飲みニケーションなど、サラリーマンが働きまくった時代だったんです。

―――1970年入社というと、あの有名な漫画「島耕作シリーズ」の島耕作と同じ年の入社なんですね。

田口
あんなに、モテませんでしたけどね(笑)。
当時の日本のホテル業界は第一次ホテルブームとして 1964年の東京オリンピックの前、東京を中心に大きなシティホテルが建設されていきました。第二次ホテルブームは 1970年の大阪万博の頃。
大阪を中心にシティホテル、鉄道系ホテルがどんどんできた時代です。
私が卒業し藤田観光に入社した1970 年当時、藤田観光をはじめ日本のホテル業界は自社所有地に自社建物で経営するビジネスモデルで成り立っていました。
しかし、藤田観光の創業社長であった小川栄一は「このままでは、ホテル業界が発展していくのは難しい。土地建物リース方式によるチェーンホテルのビジネスモデルが必要だ」と考え、その構想を社内外で発表したのです。

―――小川社長は別名、財界のブルドーザーとも呼ばれていたそうですね。

田口
小川社長は、名古屋をはじめ各都市の財界人たちに、土地建物リース方式の考えを広めていきました。
北海道の札幌でもこの考えを提唱しますが、 北海道は観光地であると考えられており「5月~10月はホテルの稼働はできるだろう。しかし、11月~4月は客が入らない」と、札幌の財界人たちも最初は懸念の声が大きかったそうです。
私は、まだ新入社員でしたから上司から命じられる通り、大成建設と組んで建物のリース方式による償却期間や損益分岐点の計算、 稼働率のシミュレーションを“そろばん” をはじきながら 毎日遅くまで残業していました。
当時、パソコンはもちろんありませんし、一人一台の電卓は夢のようなものでしたから、全部手書きでそろばんなんです。こう、B4サイズの白紙に罫線を引いてね。

―――札幌の財界の方々が懸念されているなかで、藤田観光の社内では賛同が得られていたのでしょうか?

田口
役員のほぼすべてが反対したと聞いています。
椿山荘をはじめ、箱根小涌園、大阪の太閤園と土地、建物、庭園があっての商売でしたから、役員たちにとって土地建物のリース方式で運営だけをするというのは本流から外れるような意識があったんじゃないでしょうか。

―――しかしながら、当時のビジネスマンのニーズをつかんだビジネスモデルはチャレンジですね。

田口
当時の会社出張は、駅前旅館で部長さんと課長さん、お付きの若いペーペーの新入社員の3人で相部屋というのが一般的でした。あの頃の若いサラリーマンたちは出張となると「朝早くから会議の準備をして、昼は昼でこき使われ、時には深夜まで一緒に接待して気を使い、寝る時も一緒。おまけに、上司のいびきで朝まで眠れない!」と、嘆いたものです。それでは明日の英気も養えないですよね。
小川社長は、そういった世相や若い人の気持ちも感知することができました。
「一人一部屋で過ごせるビジネスンマンが動きやすいホテルが必要。しかも会社の出張経費の範囲内で泊まれる経済性も兼ね備える」と、 モーレツ時代に生きる若い人*1の気持ちと、財布にも寄り添うことができるホテルをつくろうとしたのです。

―――確かに上司と24 時間一緒というのは辛すぎです。当時の出張は役職によって経費が違っていたとか。

田口
当時の会社の出張経費の仕組みを調べ、一人で泊まれて、奥様にもお土産のひとつも買って帰れる料金設定を決めていったのです。
小川社長は、財界の方たち、ビルオーナーの経済的な合理性と、大衆の心理と懐具合、これらの点を読み切り、我々のような若い社員に戦略的なビジネスホテルチェーンの提案書を作らせたのです。
藤田観光社内の役員や古参社員にとっては、新しいイノベーションというのはリスクにしか映らなかったのかもしれませんからね。
「これから時代は変わっていくんだ。ビジネスマンが泊まれるホテルをつくって、チェーン展開していかなければならない」と、小川社長が声を大にして訴えたこの時こそが、藤田観光の転機、転換点と言えるのではないでしょうか。
こうして、札幌で読売新聞社の新築ビルにテナント契約を締結することができたのです。
1年9カ月の施工期間を経て、1973年6月20日札幌ワシントンホテルは開業します。

チャレンジ精神と失敗の数々

―――まだ、日本にビジネスホテルという名前も普及していない時代。すべてが手探りだったのでしょうね。

田口
会社の出張経費内で安く、一人部屋に泊まれるというコンセプトを成立させるためには、いくつかのハードルがありました。
損益分岐点を上回るルーム数524室を確保するため、コンパクトなシングルルームが狭過ぎると感じられないような内装とベッドの工夫、日立化成と協力して新しいユニットバスの開発まで行いました。
今では考えられないでしょうが、間取りの関係で角部屋には窓のないルームがあり、74センチの幅しかない狭いシングルベッドに、わずか9平米のシングルルームなど…隔世の感があります。

―――設備品まで開発となると多忙を極めましたね。

田口
そのかわり、自由な発想でやれました。自由すぎて黄色のバスタブにピンクの洗面台ができてきたりしました。とにかく、チャレンジ精神でなんでもやったのです。

―――その後、ワシントンホテルは他社に先駆けて新しいことにチャレンジする文化になったのですね。

田口
しかし、これはどうなの?と、いうものも多かったですよ。
後にチェックイン時の混雑を緩和するために「ベルトコンベアー型フロント」なんてものもありました。
これは大阪万博の動く歩道をヒントに開発されたのですが、フロントの後ろにベルトコンベアーを配して、チェックインの記帳からルームキーを渡すまで流れ作業でこなすんです。
団体客の対応や、宿泊のキャンセルがあるたびに混乱し、「手で渡した方が、よっぽど早いじゃないか」と現場で陰口を言われたことも。失敗も多かったのです。

札幌で地域の方々に愛され、
ビジネスマンに指名されるホテルへ

―――出張族だけでなく、地域の方々にも愛されるホテルを目指したとか。

田口
当初は出張の際、外出せずとも食事や接待ができるレストランやバーなどの飲食施設の展開を戦略的におこなったのです。
これらの飲食施設は後に地域の方々にも大いに利用され、愛される場所となりました。パブシアター ガスライトやバー、ボンジュール銀座というレストランもありました。
開業した 1973年の年末には第一次オイルショックでトイレットペーパー騒動がおこるなど不安で暗い世相ではありましたが、365日・24時間フル稼働を目指す札幌ワシントンホテルは地域密着型のコミュニティホテルとして札幌の方々とビジネスマンに愛されるホテルへと順調に育っていくことができたのです。

2023年に創業50周年を迎えたワシントンホテル
その開業の裏側には、社長も社員も協力会社の皆様も一体となって奮闘してきた歴史がありました。